2017年3月19日日曜日

83.マハートマー(महात्मा [mahātmā]) - 聖人、寛大な心を持った人

マハートマーの語源


マハートマーを「聖人」と訳しましたが、直訳すると、

マハット(महत् [mahat]) = 偉大な

アートマン(आत्मन् [ātman]) = 心

を持っている人が、マハートマー(महात्मा [mahātmā])です。

ふたつの言葉がひとつの言葉になるのを「サマーサ(複合語)」と言います。

文法に興味のある人の為に、最後に詳しい説明を載せておきました。

マハートマーといえば、ガンディー・ジー。ちなみに、インディラ・ガンディーを始めとするガンディー一家(ソニアとかラフールとか)は、マハトマ・ガンディとは縁もゆかりもありません。

なぜここで、マハートマーを聖人と訳したのか、

聖人とは何なのか?聖人なんてどこにいるのか?

そもそも、聖人がどうとか知って、自分の幸せの追求にどう関係しているのか?

というところまで見ていきますね。


マハットの意味


マハット(महत् [mahat])は「偉大」という意味で、

他の言葉が後ろに来て複合語(サマーサ)になると、「マハー」という形になります。

「マハーラージャ」とか、「マハーラクシュミー」とか「マハーマントラ」とか、

「マハーシヴァラートリー」というのもありますね。

すべて、「偉大な」とか、「一番秀でた」という意味です。

マハーラクシュミー

アートマンの意味


アートマン(आत्मन् [ātman])は、「自分自身」「本質」といった意味ですが、

パンチャ・コーシャのコラムで紹介したように、

「自分」という自己認識は、さまざまなレベルで為されるため、

アートマンの意味も、文脈によってさまざまな意味で使われます。

マハートマーという場合は、「心、アンタッカラナ」として解釈します。

なぜなら、人の偉大さとは、その人の容姿や国籍や性別や持ち物や財産ではなく、

その人の心のありかたによるものだからです。


偉大な心を持つ人とは


人は誰でも「自分は幸せになりたい」と願っています。

それは後ろめたい事でも何でもありません。

自分に対しても、人に対しても、まず「自分は幸せになりたい」と認めることが、

自分自身と周りの生き物全てに優しさをもって接し、調和しながら幸せを追求する、

大事で基本的な第一歩です。




「自分は幸せになりたい」と願う時、その「自分」とは何を指しているのでしょうか?

心が大きな人とは、この「自分」の意味が大きい人です。

この身体ひとつの、自分自身のみならず、家族や友達が幸せなら、自分も幸せだし、

自分の身内や同胞にとどまらず、

自分の知らない人でも、国籍や人種に関わらず、分け隔てなく、

幸せの手助けをしたり、痛みを感じ取ることが出来て、それを和らげようと思える人が、

心の大きな人です。


逆に、小さな心を持っている人とは?


大きな心を持っている人の、逆を想定すれば明らかですね。

自分さえ良ければいい、自分の身内だけ良ければいい、

自分とは別の国や民族・宗教の人は、どうなっても構わない、

という考えが基礎となって、発言・行動する人ですね。

気を付けなければなりません。



自己満足とは?


日本語では「自己満足」という言葉が、

自分を犠牲にして人の幸せを喜ぶ人に対して、否定的な意味で使われるようですが、

それが人助けをするフットワークの軽さを躊躇させているのなら勿体ないですね。

「相手が迷惑かどうかを確かめない」 というのと、「自己が満足する」というのは、

同義語ではありません。

自己が満足することは、誰からも批判されるべきことではありません。

しかも他を幸せにすることにより自分が満足することは、素晴らしいことです。



聖人とは?


マハートマーを聖人と訳しましたが、聖人とはどのような人間を指すのでしょうか?

ヒマラヤの洞穴の中で、真っ白い髭をのばしている人?

雪の中で、ふんどし一丁で、蓮華座を組んで、微動たりともしない人?

手品のような、奇跡を起こしたり、飛んだりできる人?エキセントリックな人?



マハートマーと同じような意味で使われる言葉の「サードゥ」は、

「人の幸せを実現を助けられる人」と定義されます。

それはまさに、偉大なほどに大きな心を持っている人のことですね。

 
欠点だらけの自分を見ていても、ジャッジすることなく、

「もっとこうなればいいのに」や、「この人をどう利用できるか」といった目で自分を見ることなく、

自分の痛みや辛さを、瞬時に汲み取ってくれて、自分と同じように痛みを感じてくれて、

必要であれば、何でも助けを与える準備の出来ている人。

自分の幸せをいつも願い、祈ってくれている人。


マハートマーや聖人と呼ばれる人と一緒に居たり話したりすると、

心地良く、安心できて、自分のことが好きになれるのは、

その人自身が、自分や周りにリラックスしていて、

ジャッジしたり、無理に変えようとしたり、見下げたりせず、

何も問題ないこの世界の表れの一部として、自分を見ているからです。


聖人はどこにいる? 


聖人に出会うために、人は放浪の旅に出て、インドや様々な国を彷徨います。

上に書いたような、マハートマーや聖人と呼ばれる人に出会えることは、とても良い経験です。

しかし、結局、人間として生まれて、聖人を見つけるべき場所は、ただ一つです。

それは、あなたの中、そう、自分の中なのです。



人の痛みが分かる。知らない人でも助けたいと思う。それを行動に移せる。

周りから幸せにしてもらおうとしているのではなく、

周りに幸せを与えようとしている。

褒められても、馬鹿にされても、同じように平穏な心で、自分も周りも愛して、幸せでいる。

そのような心である為に、特別な身体や資格は要りません。


聖人というと仰々しく感じますが、それはどんな人の中にでもある、

聖人的な一面が、その人の主な性質として、培われた人なだけなのです。


その聖人的な心のあり方を、自分の中に見つけ、それに価値観を見い出し、

聖人的な心のあり方が、自分の自然なあり方となるまで、意識して育んでいけるようにと、

ギーターの2章や12章、13章、16章などの部分で、

聖人的な心のあり方について教えられているのです。




私なんかが聖人になろうとしていいのか?


私の人間性が変わってしまうと、家族や友達が、「お前、変わったな。。」と寂しがるのではないか?

と思うかもしれませんが、自分が聖人らしく変化することは、

家族や友達だけではなく、世界中の人間や動植物にとって、

とっても有難いことであり、大歓迎・大賛成されることです。躊躇することはありません。

自分が自分の中に平安(シャーンティ)・幸せを見い出し、

幸せなあり方で人や動植物と接すること以上に、人間として求められるものはありません。


聖人的な資質を磨く、というのは、

世界や自分に対する理解をより客観的にし、

世界や自分に対する意見や行動態度に、

より大きな思いやり(コンパッション)を表すことです。

人間としての本当の成功とは、つまるところ、世界をどれだけ変えたかではなく、

自分がどれだけ変われたかなのです。




ギーターの中での「マハートマー」


बहूनां जन्मनामन्ते ज्ञानवान्मां प्रपद्यते ।
वासुदेवः सर्वमिति स महात्मा स दुर्लभः ॥७-१९॥
bahūnāṃ janmanāmante jñānavānmāṃ prapadyate |
vāsudevaḥ sarvamiti sa mahātmā sa durlabhaḥ ||7-19||

シャンカラーチャーリヤの注釈に沿って、出来るだけわかりやすく意訳すると、

बहूनां जन्मनामन्ते プンニャ(徳)を積みながら幾多に繰り返されてきた人生の最後に、
ज्ञानवान् 知識を得る為の心を持った人は、
वासुदेवः सर्वमिति 全てはヴァースデーヴァ(全ての存在の原理である意識)であると、
मां प्रपद्यते 私(バガヴァーン)を、(自分自身の意味として)得ます。
स महात्मा そのような人は、マハートマーであり、
स दुर्लभः とても稀です。


ここでのマハートマーは、その人の本質(アートマン)が無限(マハット)であることを表しています。
(न तत्समोऽन्योऽस्त्यधिको वा।)

本質は無限であるゆえに、それを「経験」や「実現」することは出来ません。

時間の制限もないことから、既に在り、既に達成されている自分の本当の意味なのですから、

時間の中で経験して、実現してやろうという、「ヴェーダーンタ=理論、瞑想=実践」

という陳腐な考えを持つのは、ヴェーダーンタを理解していない証拠です。


人間は皆、マハートマー(無限の存在)なのに、それを知らない。

ゆえに、自分のことを小さな存在だと結論づけて、でも本質は小さな存在では無いため、

居心地が悪く、それをどうにかしようと状況を変える為にジタバタしているのが、

地球の人口70億人全員の人生のあり方。

そもそもの原因は、自分の本質を知らないことなのだから、

解決策は、自分の本質を知ることでしかない。ジタバタだけでは解決しません。


このシュローカでの ज्ञानवान् の ज्ञान は、

前に、ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])- 知る手段 の項で紹介した、

知る手段=心のあり方としての、ज्ञानです。 


自分の本質(アートマン)が無限(マハット)であることを知るための心は、

それを受け入れられるくらいに偉大で大きな(マハット)な心(アートマン)が必要なのです。

ゆえに、マハートマー(聖人)としての資質を自分の中に見つけて培うのは、

相対的な幸福の追求にも、そして根本的な問題の解決(モークシャ)にも、

必然的なのです。




<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<



サンスクリットの文法を勉強されている方へ:

महान् आत्मा अन्तःकरणं यस्य सः [mahān ātmā antaḥkaraṇaṃ yasya saḥ]
その人の(यस्य ) 心(आत्मा=अन्तःकरणम्)は、偉大(महान्)である。
その人 (सः )を、マハートマー(महात्मा )と呼びます。

महान् とआत्मा は、それぞれ第1格、यस्यは第6格なので、
私の開発したコード・システムでは、この複合語は、「116B」と分類されます。
Bはबहुव्रीहिの略です。

महत् + सुँ + आत्मन् + सुँ     2.2.24 अनेकमन्यपदार्थे । ~ बहुव्रीहिः समासः
प्रातिपदिकसंज्ञा    1.2.46 कृत्तद्धितसमासाश्च । ~ प्रातिपदिकम्
महत् + आत्मन्     2.4.71 सुपो धातुप्रातिपदिकयोः । ~ लुक्
मह + आ + आत्मन्      6.3.46 आन्महतः समानाधिकरणजातीययोः । ~ उत्तरपदे
महा + आत्मन्  6.1.101 अकः सवर्णे दीर्घः
महात्मन्    6.1.101 अकः सवर्णे दीर्घः

普通のअन्-ending として活用します。

2017年2月13日月曜日

82.アーナンダ(आनन्दः [ānandaḥ]) 幸福、あらゆる制限から自由であること

アーナンダの語源


「アー」と「ナンダ」から成り立っています。

「ナンダ(नन्दः [nandaḥ])」は、「幸福」という意味。

नन्द् (nand) という、「幸せである」という動詞の原型から造られています。

「アー(आङ् [āṅ])」は、「完全に」という意味で、「幸福」を修飾しています。


「ナンダ」は、幸せ。

「アーナンダ」は、完全な幸せ。

幸せって何?

さらに、完全な幸せって?そんなものあるの?

どこまで幸せになっても、もっと凄い人はいっぱいいるし、

どうせどれもこれも束の間の出来事。

完全な幸せは、何処に行けばあるのでしょうか?

 

アーナンダの意味



アーナンダとは、英語ではBlissとかと訳されていますが、

Blissは、分かりづらくさせている言葉の選択ですね。

普通に、Happinessで良いのです。

私達が人生の中で経験してきた、「幸せ」「幸福感」が「アーナンダ」ですし、

それらの経験的な幸福感は、「アーナンダ」の本質を知る、大切な窓となります。



幸せとはナンダ?


あなたにとって幸せとは何ですか?

特別な人と一緒に居る時、嬉しい言葉を頂いた時、尊敬している人から受け入れられた時、

美味しいものを食べている時、、、、

人それぞれ。

しかも、~な時、というように、時間や状況に制約されたものばかりですね。

人にとっての幸せの対象が、自分にとっての幸せの対象であるとは限りません。

だから、皆それぞれに、自分の家族や、自分の住んでいる地域や生まれ育った文化に囲まれて、幸せでいられるのです。
 
自分の中でも、時や場所によって、幸せの意味は変わりますね。

20年前に熱狂していた人物や場所・物が、今となっては、何がそんなに嬉しかったのか?

と思うことはありますね。

いろいろ考察してみて分かったことは、

幸せの意味はひとそれぞれ。

数え切れない対象物の種類と、それぞれ個人の数え切れない状況によって、

相対的にコロコロ変わるものです。


幸せの本当の意味



しかし、そこに変わらないものがひとつだけあります。

どの人においても、どの時代や民族、宗教、性別、立場においても、

共通する、たったひとつの「幸せの意味」があります。

それは、幸せを感じているその人そのものです。

幸せとは、自分自身なのです。

自分自身が幸せの意味である、ということを思い出させてくれる状況が、

大切な人と一緒にいる時間であったり、尊敬している人から認められることであったり、

欲しかったものを手に入れたり、嫌なものを撤去した時だったりするだけで、

幸せそのものの意味は、自分自身なのです。

へ~、それは知らナンダ。


なぜ知らなかったのでしょうか。

知る術が無かったからです。

私達が知ることが出来るのは、自分以外のもの、つまり経験の対象だけです。

五官という感覚器官を通して、もしくは通さずに、直接知り得るもの、

それは、あらゆる経験です。

その経験から、いろいろ分析して、推論や理論を立てることも出来ます。

経験や、経験から得られた理論は、何もかも、あらゆるコンセプトは、

私が対象化している、対象物です。

それらの対象物を対象化している、主体である私は、対象物ではありません。

つまり、私達は、どのような経験を通しても、

経験者である自分の本質を知ることは出来ないようになっているのです。

ちょうど、自分の顔は、自分ではどうひっくり返っても、自分では見えないように。

自分の顔を見るには、鏡のように、直接的な経験とそれによる推論とは別の、

知る手段が必要になります。


人間の経験によって知り得ない知識を教えるのが、ヴェーダです。

あらゆる幸せの追求において、成功へと導く術の知識は、

経験によって得られるものもありますが、

ヴェーダの教える範囲は、経験によっては得られない知識です。

プンニャとパーパ、デーヴァター、祈りの儀式について教え、

人間の幸せの追求を支援します。

家庭の義務を果たし、社会へ貢献すること自体が祈りの儀式であり、

デーヴァター達を喜ばせる行為であり、そこからプンニャを得て、

より快適で充実した人生を送り、より分別のある思いやりに満ちた心を育て、

葛藤から自由で平安な心を得るのです。
 
このように、成熟した心を持った人は、

あれやこれやという「普通一般に言われる」幸せの意味は、
 
時間に制限されたものであることが分かります。


そのような限られた幸せは、使い捨てカイロのようなもので、

次から次へと、永遠に、新しい幸せの対象を追い求め続けなければなりません。

そのサムサーラというカラクリを見抜けた、分別(ヴィヴェーカ)のある人に、

ヴェーダの最後の部分(ヴェーダーンタ)は教えます。

「あなたの本質は、アナンタ(制限の無い存在)なのですよ。」


もっと分かり易く: 幸せとは?


より的を射て、より分かりやすい、幸せの定義は、

「自分を縛る制限から自由になること」 です。

自分とは常に、欠陥だらけの身体や心や感覚器官から制限を受け、

さらに自分を取り巻く状況からも制限されっぱなしです。

「私は金持ちではない、有名ではない、賢くない、愛されていない、ない、ない、ない」

というように、ありとあらゆるものから、束縛されている存在が、自分です。

ゆえに、人生に与えられた時間は、もがき続ける時間。

ジタバタと、もがきにもがきまくって、

たま~に、ちょこっとした制限から解放されて、「あ~幸せ~」。

そう、幸せとは、自分を雁字搦めに束縛している制限からの解放です。

好きな人と一緒にいる時は、好きな人から離れている時間や空間の制限から解放されている。

好きな人から認証されたり、愛情表現されると、

自分は好きな人とは別の存在だという概念から解放される。

欲しかったものを手に入れると、自分と欲しかったものを引き離していた境界線がなくなり、

物欲しげだった自分から解放される。

音楽、読書、映画、瞑想、お酒、薬物、熟睡などで、我を忘れている時は、

まさに、制限だらけの惨めな自分を忘れられているから、幸せ。

幸せの正体は、制限からの自由・解放、だったのです。


この幸せの定義は、

とても、つまらないようで、

とても、重大な定義です。


ヴェーダは人間に、最後の最後に教えます。

(最期じゃないですよ!既に達成されている事実であるゆえに、
知るだけで、実践しなくてもよいので、最期でも大丈夫ですが、
出来れば元気なうちに知ってください!)

「でも、本質的にあなたは、制限された存在ではないのですよ。」

じゃあ、何なのでしょうか。

「あなたの本質は、あらゆる制限から自由な存在です。

つまり、アナンタ=アンタ(制限)の無いもの、無限の存在です」


「へ~、そうナンダ。でも、私が無限存在=アナンタって言われても、ピンと来ません。

私の幸せの追求とどう関係があるのでしょうか?」

と、思ってしまうのが人間であるというのを良く知っているので、

人間の幸せの追求を完全に満たすための知識を与える為にあるヴェーダーンタは、

分かり易く教えてくれます。

「あなたは、アナンタ=アーナンダなのです。

つまり、あなたが常に探し続けていたもの=アーナンダ=幸せな自分なのですよ。」

サットチットアーナンダアートマー
サッティヤムニャーナムアナンタムブランマ  
ですね。単なるもじりではないです。)


「その、本質的で、完全な幸せである、アーナンダはどのようにして経験出来るのでしょうか?」

は、よくある質問ですね。

ありとあらゆる経験、幸せな経験も、不幸な経験も、来ては去って行くものです。

来ては去って行く経験を見続けている、

来たり去ったりしない、今ここにいる自分が、アーナンダなのですよ。

全ての経験の中に、常にあり続けていたけど、見逃していた、自分自身のことです。

それを知るのに、特別な経験は何も必要ありません。

必要なのは、正しく知る手段(プラマーナ)のみです。





<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<

こちらも:

50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])- 知る手段
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/03/vedah.html
24.カーラ(कालः [kālaḥ])- 時間

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